「おカネ」をケチって「自粛延長」を唱えることは不条理な暴力

2020-05-16 | その他(2021年6月19日以前)

 私とほぼ同じ考えの方がいらっしゃいました。浜崎氏は文芸批評家ですから、当たり前ですが私より文章が上手いのでご紹介します。

「「単純に「命」と「経済」とを天秤にかけるべきでもない。「経済」とは「命」なのです。」

「政府が「不条理」を強いるなら、それに「反抗」することは、決して不道徳なことではない。むしろ、それこそが私たちの住み慣れた場所を守るための最後のエチカ=倫理なのです。人が何と言おうと、私たちは私たちの「生き方」を守る必要がある。」

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文芸批評家・浜崎洋介氏の記事です。

「どのような事情があろうと、この「接触8割削減」による「過剰自粛」という不条理は、一刻も早く解消すべきだと考えています。
 まず、現状を「過剰自粛」だと感じる理由を率直に述べておくと、私自身が「コロナ感染者」を見たことがない一方で、日常を奪われ、失業の憂き目にあい、生活苦に喘ぎ、将来不安に慄き、その人生を狂わされた人々を、毎日のように見ているということがあります。つまり、「8割削減」などというたった一つの「計算式」、「抽象」のために、私と、私の目の前にいる人々との生活が、具体的に破壊され続けているという現実がある」

「必ず「お前は命より経済を取るのか」と言う人間が出てきます。が、そう言う輩は、むしろ「経済」をこそ舐めていると言っていい。「経済」とは日々の生活であり、その生活を支える生業であり、私たち自身の暮らしの異名なのです。それは「おカネ」を媒介としますが、単なる「おカネ」の問題ではない。人と人との接触、ギブ・アンド・テイクの関わり合いの中から生まれてくる感情の総体、喜怒哀楽の流れそのものなのです。覆水盆に返らずとはよく言ったもので、生活を「一度止めてしまう」ことの取り返しのつかなさは、まさに東日本大震災で、私たちが経験したことではありませんか。」

「だからこそ、「おカネ」だけを渡しておいて(金銭補償)、経済は止めておいてもいいのだ(ロックダウンを目指すべきだ)などといった言説は、ニヒリズムの肯定以外の何ものでもないのです。「金をやるから大人しくしておけ」などという言葉は、家畜や奴隷には言えても、日々の仕事と、その生活の中に喜びを見出して生きる「人間」に向かって用いるべき言葉ではない。しかも、政府が「おカネ」をケチっている現状で、安易に「自粛延長」を唱えることは、それ自体が、ほとんど不条理な暴力と化していると言っていい」

「誤解してほしくないのは、だからといって私は、即刻、普通の生活に戻るべきだなどとは言ってはいないことです。ただ、出来るだけの感染予防の努力をしながら――三密の回避・手洗い・うがい・手で顔を触らないこと・高齢者などのコロナ弱者の自粛などなど――なお、最低限の生活の営みを守っていくことはできるだろうと言っているだけです。果たして、それで人が死んでしまうのなら、それはそれで「仕方がないこと」ではありませんか。そう言うことは、冷酷でも何でもない。単に当然の事実を引き受けているだけのことです。むしろ、その当然の事実を避けて、人々の生活を破壊し続けることの方が何百倍も罪深いのではないでしょうか。繰り返しますが、私たちは、決して「医療」のために生きているのではない。たとえ死んでも、「生活の喜び」(生き甲斐)のためにこそ生きているのです。」

「私たちは今、政府の「過剰自粛」によって殺されかけています。が、同時に、私たちの人生を最後に守るのは、やはり私たち自身であることも間違いありません。政府が「不条理」を強いるなら、それに「反抗」(カミュ)することは、決して不道徳なことではない。むしろ、それこそが、私たちの「エートス」(その住み慣れた場所)を守るための最後のエチカ(倫理)なのです。人が何と言おうと、私たちは私たちの「生き方」を守る必要がある。それ以外に、私たちの「生き甲斐」など、どこにもありはしないのですから。」

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